「唄はちゃっきりぶし 男は次郎長…」の歌い出しで知られる「ちゃっきりぶし」は、静岡を代表する“民謡”として広く親しまれています。ところが、実はこの曲、もともとCMソングとして作られた曲だということをご存知でしょうか?
1993(平成5)年まで、静岡鉄道狐ヶ崎駅(静岡市清水区)の近くにあった「狐ヶ崎ヤングランド」。ジェットコースターなどの乗物・遊具やボート、ボウリングのほか、夏はプール、冬はスケートリンクも楽しめる、静岡県中部地区唯一の本格的な遊園地でした。
この狐ヶ崎ヤングランドは1927(昭和2)年、「狐ヶ崎遊園地」の名で、現在の静岡鉄道の前身である、静岡電気鉄道によって開設されたのですが、その際、遊園地のオープンを記念し、沿線の観光と物産を広く紹介しようと作られたのが、「ちゃっきりぶし」だったのです。
このように、鉄道会社が経営する遊園地と、その沿線を宣伝する目的で生まれたことから、日本のCMソング草創期の代表曲とされる「ちゃっきりぶし」ですが、その作詞は、詩集「邪宗門」や「思ひ出」、童謡「からたちの花」や「ペチカ」などの作品で知られる詩人、北原白秋が手掛けています。
昭和のはじめ、すでに押しも押されもせぬ詩文学の重鎮であった白秋は、地方の一私鉄からの「遊園地がオープンすることになったので、その完成記念にぜひ唄をつくっていただきたい」という、繰り返しての申し出を、そのたびに門前払いし続けました。
しかし、ようやく白秋と面会できた鉄道会社の担当部長が、社運をかけて遊園地の建設に踏み切ったこと、入園者にも愛唱されるようなサービス用の唄がどうしても必要なことなどを、熱意を込めて説明するうちに、ついに白秋は心を動かされ、詞を書くことを快諾したのです。
1927(昭和2)年10月、作詞の取材のため白秋は静岡市にやって来ました。ところが、白秋は芸者を連れてドライブに出かけ、気の向くままに車を止めては老人や子どもたちと話し込む、夜は毎晩あちこちを飲み歩くといったふうで、いっこうに作詞に詞をとりかかる気配を見せません。
白秋としては酒を飲み、浮かれ歩きながら様々階層の人々に接することによって、少しでも静岡独特の人情や風俗に触れ、詩想と結びつく言葉や話題、特にお茶についての知識を得ようと、人知れぬ努力をしていたのでしょう。しかし、そんな詩人の心を周囲の人々は全く知るよしもなく、日が経つにつれ、鉄道会社の中では、このように一見無為な日々を送る白秋への批判が高まっていったそうです。
こんな酒浸りの日々が続いていたある日のこと、田んぼに囲まれた遊廓街の一角で、白秋は、例によって日暮れどきから芸者たちを相手に酒を飲んでいのですが、そうするうちに、一人の土地っ子芸妓がふと立ち上がって障子を開け、あたり一面の田んぼから、湧き上がるように聞こえてくるカエルの大合唱に、
「きやァるが鳴くんて、雨づらよ(こんなにカエルが鳴くのだから、たぶんあしたは雨になるのでしょう)」
と、方言まる出しで独り言をつぶやきました。
これを何気なく耳にした白秋は、すぐに宿から自分の鞄を持ってこさせ、原稿用紙を取り出すと、まるで詩の神様が乗り移ったかのように、サラサラと太い万年筆を走らせ、一夜のうちに、延々三十番にまでわたる「ちゃっきりぶし」の歌詞を書き上げてしまったのです。
こうして、酒の席で何気なく耳にした方言を“はやしことば”として巧みに取り入れることで「ちゃっきりぶし」は完成しました。そして広く親しまれ、歌われているうちに、CMソングから静岡を代表する“新民謡”へと変わっていったのです。
現在、狐ヶ崎ヤングランドの最寄駅だった静岡鉄道狐ヶ崎駅の駅舎内には、「郷土民謡・ちゃっきりぶし誕生の由来」のパネルが掲げられ、「ちゃっきりぶし」の、三十番までの歌詞すべてが紹介されています。
また、四番の歌詞に「日本平の、山の平の、お茶つみに…」と歌われ、富士山、清水港、三保、久能など、「ちゃっきりぶし」に登場する名所を望む日本平の山頂には、「ちゃっきりぶし民謡碑」が建てられています(「日本平パークセンター」の屋上)。
ちなみに、ヤングランド閉演後の跡地は、「イオン清水店」に生まれ変わりましたが、ショッピングセンター内では、遊園地の一施設だった「狐ヶ崎ヤングランドボウル」が、今も同じ名前で営業しています。かつてボートが浮かんでいた遊園地の池も残っていて、わずかながらヤングランドの名残をとどめています。
元々鉄道会社が経営する遊園地のCMソングとして広く親しまれていた「ちゃっきりぶし」。その後広く親しまれ、歌われているうちに、CMソングから静岡を代表する“新民謡”へと変わっていきました。ぜひ機会があれば、「ちゃっきりぶし」ゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか。
撮影:杉山直人
1993(平成5)年まで、静岡鉄道狐ヶ崎駅(静岡市清水区)の近くにあった「狐ヶ崎ヤングランド」。ジェットコースターなどの乗物・遊具やボート、ボウリングのほか、夏はプール、冬はスケートリンクも楽しめる、静岡県中部地区唯一の本格的な遊園地でした。
この狐ヶ崎ヤングランドは1927(昭和2)年、「狐ヶ崎遊園地」の名で、現在の静岡鉄道の前身である、静岡電気鉄道によって開設されたのですが、その際、遊園地のオープンを記念し、沿線の観光と物産を広く紹介しようと作られたのが、「ちゃっきりぶし」だったのです。
詩文学の重鎮、北原白秋に作詞を依頼
このように、鉄道会社が経営する遊園地と、その沿線を宣伝する目的で生まれたことから、日本のCMソング草創期の代表曲とされる「ちゃっきりぶし」ですが、その作詞は、詩集「邪宗門」や「思ひ出」、童謡「からたちの花」や「ペチカ」などの作品で知られる詩人、北原白秋が手掛けています。
昭和のはじめ、すでに押しも押されもせぬ詩文学の重鎮であった白秋は、地方の一私鉄からの「遊園地がオープンすることになったので、その完成記念にぜひ唄をつくっていただきたい」という、繰り返しての申し出を、そのたびに門前払いし続けました。
しかし、ようやく白秋と面会できた鉄道会社の担当部長が、社運をかけて遊園地の建設に踏み切ったこと、入園者にも愛唱されるようなサービス用の唄がどうしても必要なことなどを、熱意を込めて説明するうちに、ついに白秋は心を動かされ、詞を書くことを快諾したのです。
ふと耳にした方言が決め手となって、一気に歌詞が完成
1927(昭和2)年10月、作詞の取材のため白秋は静岡市にやって来ました。ところが、白秋は芸者を連れてドライブに出かけ、気の向くままに車を止めては老人や子どもたちと話し込む、夜は毎晩あちこちを飲み歩くといったふうで、いっこうに作詞に詞をとりかかる気配を見せません。
白秋としては酒を飲み、浮かれ歩きながら様々階層の人々に接することによって、少しでも静岡独特の人情や風俗に触れ、詩想と結びつく言葉や話題、特にお茶についての知識を得ようと、人知れぬ努力をしていたのでしょう。しかし、そんな詩人の心を周囲の人々は全く知るよしもなく、日が経つにつれ、鉄道会社の中では、このように一見無為な日々を送る白秋への批判が高まっていったそうです。
こんな酒浸りの日々が続いていたある日のこと、田んぼに囲まれた遊廓街の一角で、白秋は、例によって日暮れどきから芸者たちを相手に酒を飲んでいのですが、そうするうちに、一人の土地っ子芸妓がふと立ち上がって障子を開け、あたり一面の田んぼから、湧き上がるように聞こえてくるカエルの大合唱に、
「きやァるが鳴くんて、雨づらよ(こんなにカエルが鳴くのだから、たぶんあしたは雨になるのでしょう)」
と、方言まる出しで独り言をつぶやきました。
これを何気なく耳にした白秋は、すぐに宿から自分の鞄を持ってこさせ、原稿用紙を取り出すと、まるで詩の神様が乗り移ったかのように、サラサラと太い万年筆を走らせ、一夜のうちに、延々三十番にまでわたる「ちゃっきりぶし」の歌詞を書き上げてしまったのです。
こうして、酒の席で何気なく耳にした方言を“はやしことば”として巧みに取り入れることで「ちゃっきりぶし」は完成しました。そして広く親しまれ、歌われているうちに、CMソングから静岡を代表する“新民謡”へと変わっていったのです。
「ちゃっきりぶし」ゆかりの地を訪ねてみれば……
現在、狐ヶ崎ヤングランドの最寄駅だった静岡鉄道狐ヶ崎駅の駅舎内には、「郷土民謡・ちゃっきりぶし誕生の由来」のパネルが掲げられ、「ちゃっきりぶし」の、三十番までの歌詞すべてが紹介されています。
また、四番の歌詞に「日本平の、山の平の、お茶つみに…」と歌われ、富士山、清水港、三保、久能など、「ちゃっきりぶし」に登場する名所を望む日本平の山頂には、「ちゃっきりぶし民謡碑」が建てられています(「日本平パークセンター」の屋上)。
ちなみに、ヤングランド閉演後の跡地は、「イオン清水店」に生まれ変わりましたが、ショッピングセンター内では、遊園地の一施設だった「狐ヶ崎ヤングランドボウル」が、今も同じ名前で営業しています。かつてボートが浮かんでいた遊園地の池も残っていて、わずかながらヤングランドの名残をとどめています。
まとめ
元々鉄道会社が経営する遊園地のCMソングとして広く親しまれていた「ちゃっきりぶし」。その後広く親しまれ、歌われているうちに、CMソングから静岡を代表する“新民謡”へと変わっていきました。ぜひ機会があれば、「ちゃっきりぶし」ゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか。
撮影:杉山直人
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